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カリスマ植木職人「伊藤伊兵衛」

植木職人の始まり

慶長8年(1603)の江戸開幕以来、江戸の町には、広大な敷地の大名屋敷が数多く建てられました。戦乱の世が終わって泰平の時代が定着するにつれ、大名達はこぞってその屋敷内に庭園を築き、その優美さを競うようになりました。そして、その大名屋敷の庭園の造園や手入れに従事したのが、近隣の農民達でした。
染井村周辺は、本郷台地に連なる大名屋敷に隣接し、長池(現在の染井霊園内)などの湧水も多く、水に恵まれた土地でした。染井村の農民は、いつしか植木屋として生計を立てるようになり、品種交配の研究・開発の拠点として、江戸随一の植木職人が集まる村となっていきました。
【画像】染井王子巣鴨辺絵図(豊島区郷土資料館所蔵)

カリスマ植木職人 伊藤伊兵衛

江戸の園芸史を語る上で欠かせないのが、江戸随一の植木屋と言われた伊藤伊兵衛。しかし、それは一人の人物ではなく、その名が代々引き継がれたものです。中でも三代目伊藤伊兵衛 三之烝と、四代目伊藤伊兵衛 政武の親子が有名でした。
 三代目の三之烝は「きりしま屋伊兵衛」と号し、つつじ・さつきの栽培で名を馳せました。四代目 政武は「楓葉軒」と号し、かえで・もみじの新種開発に勤めました。そして、三代目の三之烝が残した「花壇地錦抄」「増補地錦抄」や四代目 政武が残した「広益地錦抄」「地錦抄附録 」は、日本植物史における最も重要な古典植物図鑑として学術的に貴重な資料となっています。

江戸庶民の娯楽となった花見

染井村では、盛んに品種交配や研究が行われ、様々な品種を生み出しました。言わば、江戸時代の最先端バイオ研究拠点であり、流行りを先取りするために、新品種が競って開発されました。そして、その最先端の花が咲く染井の庭園は、季節になると一般に公開され、江戸庶民が季節を楽しむフラワーテーマパークとしてにぎわいました。
【画像】武江染井翻紅軒霧島之図 伊藤伊兵衛園内図(豊島区郷土資料館所蔵)

花を愛でる江戸庶民の暮らし

江戸時代、江戸市中や近郊の花の名所は、巣鴨に限らず江戸庶民の娯楽としてにぎわいました。各地の名所の評判を集めた番付、双六、案内図などの娯楽情報誌が盛んに刷られたことからも、人気のほどがうかがい知れます。そして、名所や縁日の植木商、天秤を担いで市中を歩く花売りを通じて、江戸庶民の生活にも花を愛でる習慣が広まりました。玄関先に鉢植えや盆栽を飾る下町路地裏の情景は、このころから定着していたようです。

エンターテイメント化した菊づくり

江戸時代、花見は庶民娯楽の中心であり続けました。しかし、その種類は、椿からつつじ、菊、橘、朝顔など時代とともに流行がありました。江戸時代後半の花トレンドは「菊」。染井の植木職人村でも菊の栽培や品種改良が盛んに行われました。秋になると菊見が催され、なかでも巣鴨・駒込周辺は菊見の名所として知られるようになりました。
 菊づくりは、江戸中期の「花壇づくり」に始まり、一本から多数の花を咲かせる「咲き分けの菊」や「千輪咲き」、菊で風景をつくる「形造り」と技巧を凝らしたものになっていきました。そして、江戸後期以降は人を模した「菊人形」へと発展していきました。
 巣鴨の菊づくりは、江戸時代中期〜後期に3度の大ブームがあり、菊見に押し掛ける人々で長蛇の列ができ、80余りの植木屋と100軒もの出店でにぎわったと記録が残されています。
【画像】蝶園 流行菊の花揃 巣鴨 植木屋弥三(豊島区郷土資料館所蔵)